去る令和6年12月3日、練馬区の東本願寺真宗会館にて友松雅英先生(台東区東上野、西岸寺住職)をお迎えし、声明研修会が行なわれた。「日常の勤行と作法」を主題に、講義ならびにお勤めの稽古をつけてくださった。お勤めをする心構え、そして実践としての鏧(きん)や音木の打ち方、リズム、ご和讃の唱和では我流になりやすい音程などを、ひとつずつ丁寧にご指摘くださった。
儀式における声明作法は勿論、平生のお勤めも大切である。が、自坊では自分一人でお勤めをする機会が殆どであるため、本来の音と自らの出す音とのズレなど、曖昧になっている箇所が自覚できないこともある。そうした会員の反省や疑問に応えてくださるかたちで進行してくださり、会員一人一人が初心に帰って学び直す機縁が開かれた。仏徳讃嘆(ぶっとくさんだん)と懴悔(さんげ)
「私たちがお勤めをするのは、教えを受けて生活の中で表現していくという意義があります。」と友松先生が講義の最初に仰った。「お勤めは表現である」と。「表す」ということが勤行の一つの相(すがた)であり、勤行は我が身が受けた「信(まこと)」の表明でもあると私自身は感じた。また先生は「浄土という目にはみえない世界を、各々の声を通じて明らかにしていくということでもある。」とも仰り、これは経典を黙読しどこまでも内観していく座学とは違った聞法の形であると教えてくださった。
さて、我々真宗門徒はどのような心構えでお勤めをするのか(お経をいただくのか)。他宗では国家護持や祈願のためにお経をいただく(読む)かたちもあるというが、我々真宗門徒は、まず仏徳讃嘆のためにお経を読む。それが「誦経(じゅきょう)」といういただき方であると教わった。「お経をいただくとは、弥陀(みだ)の直説(じきせつ)を我が口から称え、我が耳で聞いていく。これが念仏者の意義である。」と。さらに続けて「お勤めをする時には、『教えを聞いても聞けない我が身である。全く教えを聞いていなかった』という懴悔がなくてはならない。」と仰られた。はっとした。「懴悔」を忘れていたことに気付かされたのである。「懴悔を忘れてはならない」というお言葉は極めて大切なことであると改めて感じた。
勤行と作法
讃嘆と懴悔という勤行時の心構えを教えていただいた後には、勤行中の所作や礼の作法、「表白」はより重厚な読み方をすること、「御文(おふみ)」の拝読は「ありがたく聴聞していただけるように読む」ことなど、日常の勤行や儀式における具体的な作法を教わった。お手本で先生が声を張ると、出席者の背すじも自ずとピンとなっていくのがわかった。
より専門的な内容として、「仏説阿弥陀経」の音木(おんぎ)*の打ち方についてお経の一句の文字数で強弱をつけ打ち分ける「モロ打ち」と「片打ち」を教わった。そして、打鏧(だきん)の際の撥(ばち)はできるだけ緩く持つことも教わった。
*音木:多人数で読経する際に揃えるために打ち鳴らす拍子木(ひょうしぎ)
*路念仏:亡き人を自宅から葬場まで運ぶ道中で、鈴を連続で打ち鳴らして念仏する勤行次第
回心懴悔(えしんさんげ)
今回の研修会では、讃嘆懴悔という勤行の根本にある心をいただき直した。勤行においては常に恭敬心(くぎょうしん)を大切にし、懴悔の心を持って音や作法のブレを修正し、日常の勤行では我が身が出す音を常に聞きながら絶えず研鑚する姿勢が大切であると教わった。この研修会そのものが、「回心懴悔」の御心をいただき直すことのできた機縁であったと言える。正しい作法をいただき背すじがピンとなり、阿弥陀仏に垂れるべき頭が垂れていなかった我が身が自覚せしめられた。日々の姿勢がいかに自己流(自力)になっていたかを確認できた研修会であった。
我々は他力に帰り続けることが大切であると改めて教わった。懴悔讃嘆の心をいただき、親鸞聖人のご和讃が思い起されたのであった。
仏智(ぶっち)うたがうつみふかし この心おもいしるならば
くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし
(愚禿善信作『正像末和讃』真宗聖典初版p507、2版p620)
開教所法圓寺(ほうえんじ) 鎮西 猛(ちんぜい たける)