私の親鸞聖人との出遇い 1 -青木新門さんのご法話より-


これから4回にわたって、2018年に当会の報恩講でお話くださいました作家青木新門さんのご法話を掲載いたします。

青木 新門 (あおき しんもん)

1937年富山県生まれ。作家、詩人。早稲田大学中退後、富山市で飲食店を経営するが倒産。1993年、葬儀社で納棺夫として働いた経験を描いた『納棺夫日記』(単行本・桂書房、文庫本・文春文庫)がベストセラーとなる。同書は映画『おくりびと』の原案となった。その他の著書に、童話『つららの坊や』(桂書房)や、『いのちのバトンタッチ』(東本願寺出版)など多数。


皆さん、おはようございます。ただ今、ご紹介にあずかりました青木新門です。よろしくお願い致します。
 私は、ひょんなことから葬儀社に勤めまして、亡くなった方をお棺の中に入れるという仕事をやっておりましたのが、今から45年前からの10年間でした。その現場の体験を『納棺夫日記』という本に著したところ、何だかベストセラーになってしまいました。そして俳優の本木雅弘君との出会いがあり、映画『おくりびと』につながっていったり、その映画がアカデミー賞外国語映画賞を獲ったり、何かおかしなことになってしまいました。
 
死に携わる
 私が葬儀の世界に入りましたころ、富山ではほとんどの方は自宅で亡くなっていました。日本では、昭和20年代~40年代中ごろまで自宅死亡率は全国平均で90%でしたが、逆に今は自宅外、つまり病院とか施設とか老人ホームでの死亡が90%です。
 当時は、自宅で亡くなったら親族がお棺の中に入れるのが当たり前でした。北陸では、親族の者が納棺する風習で、他人には一切触らせませんでした。兄弟とか、いとことか、おじさんとか、そういう人たちが集まり、ふんどし一つに汚らしい服を着て、荒縄のたすきを縛る。それで始めるのかなと思ったら、台所へ行って酒ばかり飲んでいる。相当酔っ払ってきたころに「ならやるか」と納棺をはじめるという、そんな時代でした。
 こんにち、この風習を見る機会はないでしょう。ほとんどの方が自宅外で亡くなられますし、施設や病院で日ごろから体をきれいにしておられますから。そういう施設の霊安室そばのナースセンターには「エンゼルセット」というものがあります。エンゼルセットというと聞こえがいいですが、真綿と割り箸みたいなものが入っているものです。その真綿を耳とか鼻とか穴という穴に全部詰めて、不快感を抱かせないようにきれいにご遺体を整えます。現代は、そうなったご遺体が霊安室から出てくるところしか見られないのです。
 昔はそうではありませんでした。田んぼから帰ってみたらばあちゃんが死んでおった、そんなひどいこともある時代でした。どうして納棺のときに汚い服を着るのか。死は不浄だから、納棺に携わった者は着ていたものを一切脱いで縄で縛って、村の火葬場へご遺体と一緒に持っていって燃やすという風習があったのです。それほどの死に対する不浄観が当時はありました。そんな時代にそういう世界に入りまして、いつの間にか他の仕事は一切しないで納棺だけやっている納棺専従社員みたいになってしまいました。そんな社員は私だけでした。
 それが評判になり始めて間もなくのころ、分家の叔父が突然私のアパートへやってまいりまして、「こんなところに住んでいたんか。もうあきれたもんだ。おまえには父もいない、母もいない。本家のじいちゃんもあのざまだ。だから、俺たち親族みんなでおまえを何とかしてやろうと思って大学まで出してやった。その大学も中退して、富山で変な店をやっていると聞いたが、その店も倒産したらしいと聞いた。東京か大阪へでも逃げていったのかと思ったら、何のことはない。こんなところでそんな仕事をやられたんじゃ、俺たち親族は町も歩けない。」と、けんもほろろに言われました。叔父にしてみれば、援助して大学まで出してやったのにという思いがあったんでしょう。
 当時、火葬場で働いている方は隠坊(おんぼう)と呼ばれていました。以前講演で話しましたら、これは差別用語だから使ってはいけない言葉だと言われましたが、あのころは堂々と使われていました。そう呼ばれている方が住んでいる村の娘さんが、富山市の青年と恋に落ちて結納まで済ませていたのに、「あんな隠坊が住んでいるような村の娘を、うちへもらうわけにいかん」と、その人とは何の関係もないのに、その村に住んでいるというだけで結納は破談になってしまった。何しろ死に携わるだけで白い目で見られるような時代でした。
 そんな背景があって叔父はやってきて、とにかくすぐ辞めろと詰め寄りました。若いときというのは、会いたくない人に会った瞬間にめちゃくちゃ言われると、むしろ反抗的になるものです。そうしたら向こうにもそれが分かって、「おおそうか。辞めないんなら、おまえはもう親族でも何でもないぞ。村にも来てくれるな、顔も出すな。お前みたいなやつは親族の恥だ。」と。親族の恥だと言われましたときは、私は頭に血が上り、金属バッドでもあったら殴ってやろうかと思ったんですが、それも叔父に伝わったようで、顔も見たくないと、畳を蹴って帰っていきました。
 
丸ごと認められる
 それからというもの、私は納棺しながら納棺のことをものすごく意識するようになりました。コンプレックスというんでしょうか。自分がやっていることが、社会全体から白い目で見られているような、恥ずかしいような感覚になり、友達親戚はもちろん誰とも会わなくなったのです。今でいう閉じこもりですね。叔父の話が伝わったんでしょう、他の親戚からも何の連絡もなくなり、隠れるようにして生きていた時期がありました。
 隠れるようにして会社へ行って、隠れるようにして納棺して、隠れるようにして帰ってくる。道で知った人が来ないかばかり気にして歩き、誰か来たらぱっと路地へ入って過ぎ去るのを待っている。そんな状態が続き、こんなことはもうやめようかなと思いました。
 そう思っていたある晩でした。若かったですから、夜中に女房の布団に近づこうとしたら、ぎゃあと泣き出しました。叔父からでも聞いて辞めさせろとでも言われていたのか、他の誰かに聞いたのか。泣きながら、あんたはそんな仕事していたのか、私は知らなかったと、そんなことを言いました。
 ばれたらしようがないと思って、していると言ったら、今日もしてきたのかと言うから、今日は2件してきたと答えた。そしたら、そんな死体を触った手で触れられるのは嫌だと抵抗されましたが、若いときですからなおさら求めようとしたら、ぎゃあと泣き出しまして、「穢らわしい」と叫んで台所の方へ逃げていきました。
その「穢らわしい」というのを、『納棺夫日記』にそのまま書きましたら、映画『おくりびと』で広末涼子さんが、そのまま本木雅弘さんに「穢らわしい!」と叫んでおりました。
 何はともあれ女房が言うには、子どもが小学校へ入るまでに辞めてくれということでした。小学校1年ぐらいになって「お父さんのお仕事は何ですか」と聞かれて答えられないようじゃまずいというようなことを言いました。それもそうだなと思ったけれど、それよりも自分自身がそんなコンプレックスを抱きながら隠れるようにして生きている、そのこと自体がおかしいと、辞めようと思いました。
 辞めればいいんだ、違った仕事をすれば、いっぺんに解決する問題じゃないかと思い、その晩辞表を書きました。そして会社へ行って仕事が終わったら社長に渡してお別れしようと、辞表を持って会社へ行きました。
 ところが、その日の日中に一つの事件がありました。その事件を本に書きましたので、読み上げてみます。
「今日の家は、行き先の略図を手渡された時は気づかなかったのだが、玄関の前まで来てはっと思った。
 東京から富山へ戻り最初につき合っていた恋人の家であった。
 十年経っていた。瞳の澄んだ娘だった。
 コンサートや美術展など一緒によく行った。
 父がうるさいからと午後十時には、この家まで度々送ってきたものだった。別れ際に車の中でキスしようとすると、父に会ってくれたら、と言って拒絶した。それからも父に会ってくれと何回か誘われたが、結局会う事なく終わってしまった。
しかし、醜い別れ方ではなかった。
 横浜へ嫁いだと風の便りに聞いていた。来ていないかもしれないと思い、意を決して入っていった。
 本人は見当たらなかった。ほっとして、湯灌を始めた。
 もう相当の数をこなし、誰が見てもプロと思うほど手際よくなっていた。しかし、汗だけは、最初の時と同様に、死体に向かって作業を始めた途端に出てくる。
 額の汗が落ちそうになったので、白衣の袖で額を拭こうとした時、いつの間に座っていたのか、額を拭いてくれる女(ひと)がいた。
 澄んだ大きな眼一杯に涙を溜めた彼女であった。作業が終わるまで横に座って、私の顔の汗を拭いていた。
 退去するとき、彼女の弟らしい喪主が両手をついて丁寧に礼を言った。その後ろに立ったままの彼女の目が、何かいっぱい語りかけているように思えてならなかった。
 車に乗ってからも、涙を溜めた驚きの目が脳裏から離れなかった。
 あれだけ父に会ってくれと懇願した彼女である。きっと父を愛していたのであろうし、愛されていたのであろう。その父の死の悲しみの中で、その遺体を湯灌する私を見た驚きは、察するに余りある。
 しかしその驚きや涙の奧に、何かがあった。
 私の横に寄り添うように座って汗を拭き続けた行為も、普通の次元の行為ではない。彼女の夫も親族もみんな見ている中での行為である。
 軽蔑や哀れみや同情など微塵ない、男と女の関係をも超えた、何かを感じた。
 私の全存在がありのまま認められたように思えた。そう思うとうれしくなった。この仕事をこのまま続けていけそうな気がした。」(『納棺夫日記』文春文庫p27
 ここは事実を書いたものです。文中の彼女のお父さんというのは名の通じた製薬会社の社長さんで、彼女はその令嬢でした。自分の仕事に抱くコンプレックスで会いに行けませんでした。
 私が納棺を始めたときに、障子の陰とかふすまの陰から見ていたというのではなくて、私の横に寄り添うように座って、お父さんの額や頬をなでながら、私の方を向いて私の汗を拭いてくれました。彼女の瞳は涙目になっていましたが、私がやっていることも含めて、丸ごと認めてくれたように私は感じました。
 人間、追い詰められて、追い詰められて、人を殺してやろうか、自殺しようかと思うような、もう行き場がないくらいに追い詰められたときでも、何かに丸ごと認められたら生きていけるんじゃないかな、救われるんじゃないかなと、私は思いました。
次回に続く)