私の親鸞聖人との出遇い 2 -青木新門さんのご法話より-

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青木 新門


1937
年富山県生まれ。作家、詩人。早稲田大学中退後、富山市で飲食店を経営するが倒産。93年、葬儀社で納棺夫として働いた経験を描いた『納棺夫日記』(単行本・桂書房、文庫本・文春文庫)がベストセラーとなる。同書は映画『おくりびと』の原案となった。その他の著書に、童話『つららの坊や』(桂書房)や、『いのちのバトンタッチ』(東本願寺出版)など多数。


分ける

こんにちの社会は、本当に丸ごと認める力が衰弱しています。何でもモノを分ける。これは近代ヨーロッパ思想の科学的合理思考と申しますが、分別のある子は頭がいい子だ、分別のない子は頭が悪い子だ、という教育が当たり前のように行われているわけですね。分けるということが頭のいいことだと。
科学というのは、分けるという意味の「科」。理科、社会科、内科、小児科、産婦人科と、分けて学んでいくことを指します。丸ごとではなく、どこかを切り捨てている。ですから、脳にそういう癖が付いてしまっていて、何でも分けてしまう。
前に、福島県郡山市に講演に行きましたが、そこに佐藤浩先生という盲目の詩人がおられました。戦後60年間、全国の少年たちから詩を集めて詩集を出しておられた方です。佐藤さんと会いましたら「青木さん、いい詩があったよ」と紹介してくださいました。こんな詩です。郡山小学校4年生の男の子の詩です。
   「ぼくは今日学校の帰りに
   トンボをつかまえて家へ帰ったら
   お母さんが かわいそうだから
   はなしてしてあげなさいと言った
   ぼくはトンボをはなしてやった
   トンボはうれしそうに
   空高く飛んでいった
   それからぼくは台所へ行ったら
   お母さんがほうきでゴキブリを
   たたき殺していた
   トンボもゴキブリも昆虫なのに」
 少年は、昆虫という概念の中にトンボもゴキブリも分けないで、丸ごと認める力を持っ
ていますけど、お母さんは完全に分けておられますね。トンボはかわいそうだから放して
あげなさい、ゴキブリはたたき殺してもこころに痛みも感じない。こういう生き方をして
いるわけです。
 どうしてそういうふうになるかと申しますと、近代ヨーロッパのヒューマニズムの思想
が、ちょうど今のお母さんたちに100%身に付いた世代になっているわけです。ヒューマニ
ズムを日本語に訳しますと、「人間中心主義」ということです。人間に都合のいいものはかわいそうだから放してあげなさい、人間に都合の悪いものはたたき殺してもこころに痛みも感じないという生き方です。これは近代ヨーロッパ思想です。
一昨年に上智大学に講演に行きましたら、私の前に、去年(2017年)105歳で亡くなられた日野原重明(医学博士)先生が講演されました。104歳で1時間ほど立ったままでお話されるのですから、びっくりしました。その日野原先生は「生と死を考える会」の名誉顧問でした。それで、私は仏教では「生死(しょうじ)」と申しますが、生と死をどうして分けるんですかと尋ねたら白けてしまいました。そんな話はどうでもいい話でして、座るときにこれだけ弁明しなければならないとはおかしな話です。座らせていただいてお話を続けます。
そんなことで私は思うんです。こんにちの社会は丸ごと認める力がない。何でも分けてしまう。お母さんたちまでは「人間中心主義」なのです。ところが、その子どもさんたちは、「人間」がなくなってしまって、「自分」になってしまったんです。「自分中心主義」。自分に都合のいいものには、かわいそうとか、優しいんですよ。でも都合の悪いものは、たたき殺す。
ストーカー殺人事件なんかはその典型でしょう。恋がうまくいっているときはとても優しくていい青年だったのが、ふられた瞬間からストーカーになって、最後は相手を殺すというような事件が盛んにあります。自分に都合が悪くなった、ただそれだけのことで殺すというそんな事件が。
だから、少年犯罪のほとんどの判決文が同じ文章です。「あまりにも身勝手な、自己中心的な犯罪である」と。そういう社会になってしまっている。それは、丸ごと認める力がなくなったからです。
人間というのは丸ごと認められると、こころを開くんですよ。
もし、叔父に「おまえ、こんなところに住んでいたのか。子どもが生まれてドライミルクのために、納棺なんていう仕事までして頑張っているのか」と言われたのだったら、まったく違う感覚になったのではないかと思うんです。こころを開いてから、「だけど、その仕事はさ…」とか言われて導かれたら違っていたと思うんです。しかし、頭から「おまえみたいなやつは親族の恥だ」と言われたからむきになってしまいました。
丸ごと認められるということは、とても大事なことだと思うんです。認めてくれるのはネコでもいいんです。日本中で、人間なんかまったく信頼できない、うちのタマだけが私のことを丸ごと認めくれる存在だと、ネコと仲よくしておられるおばあちゃんが何百万人おられるそうです。子ネコとか子イヌとか、言葉を知らないよちよち歩きの子どもは、「生死(しょうじ)」を生きていますから、何をやってもかわいいし、癒やされるし、丸ごと認めてくれる。人間は、言葉を覚えてから、分けるということを知ったんです。それをキリスト教ではアダムとイブとか言ったりしますけどね。「はじめに言葉ありき」と『ヨハネ伝』にもあります。そこに仏教との違いがある。仏教は丸ごと認める力だと思うようになりました。

叔父の死

とにかく私は丸ごと認められたいような気持ちになり、次の日に医療機器店に行き、白い服を一式全部買いました。納棺するときに、お医者さんみたいに真っ白い服に着替えまして、言葉遣いも礼儀礼節も大事にすることから始めました。人間の行為とは面白いものです。結果として同じことをやっても、コンプレックスを抱きながら汚い服を着て嫌々やるのと、身なりをきちんと整えて、礼儀礼節を大切にして、正しい言葉遣いで始めるのとでは、社会的評価が雲泥の差ほど違ってきました。
あるお宅で80歳代のおばあちゃんをお棺に入れまして、通夜祭壇の前に安置してから洗面所に手洗いに行って帰ってきたら、なぜかしら座布団が敷いてあって、お茶まで用意してあった。私が白い服を着たままお茶をいただいていたら、90歳くらいのおばあちゃんが私の横まで畳を這ってこられて、「先生さま、私死んだら、あんた来てもらえんかね」とお願いされたのです。
それまでは、納棺が終わると住職から「何をもたもたしているんだ、お通夜が始まるのに。納棺夫は早う帰れ、帰れ」と追い出されるように帰っていました。それが、ぴしっとやるだけで、座布団があって、お茶があって、先生に〝さま〟が付いて、予約までいただける。
ものごとというのは、今、目の前にあることを全身全能で対処すべきだなということを現場で学びました。パートだから、腰掛けだからという意識で仕事は絶対にやるもんじゃないなと思いました。
先日、福岡の生徒数千人くらいの高校で講演したときに、今皆さんの目の前にあるというのは勉強でしょう、勉強しなくちゃと言ってきたんです。目の前にあるものが納棺の仕事であろうと、総理大臣であろうと、どんな仕事であろうと、今、目の前にあるものを全身全能でやるべきだと。
そうして仕事をしているうちに、だんだん評判になりまして、あっちからも、こっちからも、よその業者からも、そして警察からまで電話が掛かってくる。もうどうしようもなくなってふらふらになっていた。夜中でも呼び出されて、365日24時間ほとんど休まないで働いていました。そんなことで今度は体力的な問題から、また辞めようかなという気持ちになったんです。
そんなとき、私の分家の叔父が末期癌で入院したと連絡があったのです。私を親族の恥だと言った叔父です。あなたは世話になったから一回ぐらい見舞いに行ったらどうかと、私を捨てて出ていった母親から電話がありました。その電話を聞いた瞬間「ざまあみろ」と思いました。人間って、少年時代どんなに世話になっていても、一番最後に親族の恥だと罵倒されたのしか覚えていないのですよ。見舞いには行きませんでした。
ところが、母親から電話があり、あなたが行っていないようだったから私が行ってきたと。主治医がおそらく今晩が峠だろうと言っているから、行くのなら今日中がいいということでした。意識不明の危篤だという言葉だけが頭に残り、それなら行ってやろうかなと思いました。あのころの私というのは相手のことなんか一つも考えていなかった。自分が何か言われまいか、ということばかり考えていたのです。
叔父に辞めろと言われていたその納棺夫を続けていました。叔父の価値観は、家柄、地位、名誉、出世、を大事にするものでした。母親から意識不明で会話もできなかったと聞いていましたから、それなら何も言われまいと思って、親戚の手前、おふくろの手前、見舞いに行きました。
個室の叔父の病室をノックしましたら、叔父の連れ合いが出てきた。その連れ合いというのがまた人のいい方で、いつも小遣いをくれた叔母さんなんです。それが私の顔を見た瞬間、富山弁で、「あれえ、あんた、何ちゅういいとこへ来らっしゃったがけ。あれえ、うれしいや。いいとこへ来らっしゃったわぁ。さっきまで意識不明やったけど、今、気が付いとられる」と。
ドキっとしても帰るわけにはいきませんので、叔母に手を引かれて病室へ入りましたら、象さんの鼻みたいなプラスチックの酸素吸入器の大きいのが顔に当たっていて、顔が見えない。ほっとして突っ立っておりましたら、近づけといわれて近づいて椅子に座ったときでした。叔父から震える手が出てきた。
ドキリとして、私がその手を見たとき、あれは外してもよかったのかなぁ、叔母が酸素吸入器を外したんですよ。とにかくその震える手を握った瞬間に、叔父の目の縁からぽろっと大きな涙が流れ落ちて、口が動いている。
「叔母さん、これ、何を言っているんかね」と聞いたら、叔母が、「あれっ、これ、ありがとうと言ってるんだわ」と。その「ありがとう」が耳に聞こえた瞬間、私は椅子から転げ落ちるようにして、そのベッドの横に土下座して、叔父の手を握り、「叔父さん、すみません、許してください、勘弁してください」と泣きました。泣きながら帰りました。家に着くと叔母から電話があり、あなたが病室を出ていったすぐ後に叔父が息を引き取ったとのことでした。
 (次回に続く)