私の親鸞聖人との出遇い 3 -青木新門さんのご法話より-

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青木 新門



1937
年富山県生まれ。作家、詩人。早稲田大学中退後、富山市で飲食店を経営するが倒産。93年、葬儀社で納棺夫として働いた経験を描いた『納棺夫日記』(単行本・桂書房、文庫本・文春文庫)がベストセラーとなる。同書は映画『おくりびと』の原案となった。その他の著書に、童話『つららの坊や』(桂書房)や、『いのちのバトンタッチ』(東本願寺出版)など多数。

 

生死一如

 そんな叔父の葬式の次の日でした。大谷派の井波別院(瑞泉寺)のある富山県砺波市に、浄土真宗本願寺派の寺で住職をしている私の友人がおりました。若いときの文学仲間の友人なのですが、そこから1冊の本が送られてきました。『ありがとう、みなさん』という本が、叔父の葬式の次の日に届いたのです。
 私の友人である住職のお姉さんが砺波にある井村病院という病院に嫁ぎ、医者になったばかりの息子井村和清先生が32歳で亡くなるのですが、癌になって手術をしてから1年間付けていた日記の文章を、井村先生の叔父である私の友人が手直しして、病院の自費出版の本として500部だけ出版されたものです。その本は、やがて『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社)という本になってベストセラーになって映画にもなりました。その本を読み始めた途端、涙が出て読めませんでした。
 井村先生が癌にかかり、治ったかなと思って検査に行ったら、全身に癌が転移していた。その癌の日記です。ここが読めなかった私。
 「肺への転移を知ったとき、覚悟はしていたものの、私の背中は一瞬凍(こお)りました。その転移巣はひとつやふたつではないのです。レントゲン室を出るとき、私は決心していました。歩けるところまで歩いていこう。
 その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中がとても明るいのです。スーパーへ来る買い物客が輝いてみえる。走りまわる子供たちが輝いてみえる。犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが輝いてみえるのです。アパートへ戻ってみた妻もまた、手をあわせたいほど尊(とうと)くみえました。」(『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』祥伝社p140)
 皆さん、考えてみてください。自分が癌になって、手術して治ったかなと思って検査に行ったら、全身に癌が転移していた。そんな日の晩に書く日記に、いい文章を書こうと、こういうふうに書こうとか、本にしてもらおうと思って日記は書かないですよ。おそらく井村先生は自分が見た光景をそのまま書かれたのだと思います。あらゆるものが差別なく輝いて見える世界に出遇っておられる。
 私は納棺をしているときに、人が死んだらどうなるんだろうか、どこへ行くんだろうか、往生ってどんなことだろうか、成仏ってどんなことだろうかと、そんなことを真剣に考えていました。ちょうどこのころは親鸞聖人の『教行信証』を読んでいる時期でした。そんなときに井村先生の日記に出遇ったのです。「あ、そういうことだったんだ」と。
 人間の生と死とが限りなく近づくか、あるいは、生きていながら100%死を受け入れたとき、井村先生の文はこうですね、「レントゲン室を出るとき、私は決心していました。歩けるところまで歩いていこう。」と。死を受け入れた瞬間ですよ。全身に癌が転移していた、だから、歩けるところまで歩いていこうという文章を書かれた。
 われわれはそういう世界を見ることができません。なぜか。「生」にしがみついて生きていますから。今の日本の社会は「生」の哲学で成り立っています。死は、なるべく隠して、隠蔽して、忘れよう、忘れよう。あるいは表に出さないようにしよう。そういう社会の中では絶対見えない世界。生と死が一如になったときに初めて見えてくる世界というのがあるんだなと思いました。
 それから、はっと思い出しました。叔母は、叔父がもう長くないなと思ったので本家のあんちゃん(私)に連絡しようかと尋ねたら、「せんでもいい。あんな親族の恥みたいな者にせんでもいい。」と、死ぬ前の日に言っていたそうです。その叔父が、私が行ったときに、叔父の方から手を出して、涙を流して、柔和な顔をして「ありがとう」と言った。叔父もあのとき、井村先生と同じように、病院の窓も、看護婦さんも、叔母も、納棺夫に成り下がった私も、差別なく輝いて見えていたのではないだろうかな、このように私は思ったのです。
 それからというものは、納棺に行っても、お顔ばかり気にするようになった。そして、多くのお顔を見ているうちに、どんな死に方をしても、亡くなってすぐのお顔はみんないい顔をしているなと思いました。
 ところが、人によって硬直という現象が起きる。これは化学反応なんですね。30分もしないうちに硬くなる人から、二日たっても硬くならない人までいろいろなのです。それをどうしても知りたくて、私は仲良くしている帯津良一(医学博士)というホリスティック医学協会の会長―養老孟司先生(解剖学者)と東大の解剖学の同期生だった先生ですが―に尋ねました。人間の硬直って、どれぐらいの時間でなるんですかと言ったら、「そうだね、人によって、みんな違うから、平均に言えない」と。また、人によらなくても、20度ほどの病室で亡くなって、そこから0度ぐらいの霊安室へ運んだら、温度差ですぐ硬直してしまう場合もあるし、いろいろだから一概に言えないと。あえて言えばどれぐらいかと聞くと、せいぜい2~3時間っていうとこだろうとおっしゃいました。亡くなってから2~3時間以内にお顔を見た方と、硬直してからのお顔を見た方と、死のイメージがまったく違ってしまうということです。これは皆さん覚えておいてください。
 例えば、デスマスクというのは硬直したところから取るんですよ。ベートーベンのも芥川龍之介のも残っています。このデスマスクというやつは、いくら見ても冷たい石膏の、いかにも死顔というような感じです。
 しかし、芥川龍之介の女中さんの日記というのが今でも残っていて、「長らくお仕え申し上げましたが、あんなにお優しい、あんなにお美しいお顔を見たのは初めてです。」とある。芥川の死の第一発見者です。いつも眉間にしわを寄せて何か書き物をしていたらしい。それが、見た瞬間あんなに優しい顔を見たのは初めてですという文章が残っています。

(次回に続く)