私の親鸞聖人との出遇い 4 -青木新門さんのご法話より-

私の親鸞聖人との出遇い 4 (前回の記事はこちら

青木 新門


1937
年富山県生まれ。作家、詩人。早稲田大学中退後、富山市で飲食店を経営するが倒産。93年、葬儀社で納棺夫として働いた経験を描いた『納棺夫日記』(単行本・桂書房、文庫本・文春文庫)がベストセラーとなる。同書は映画『おくりびと』の原案となった。その他の著書に、童話『つららの坊や』(桂書房)や、『いのちのバトンタッチ』(東本願寺出版)など多数。


死に顔を見る

 私は、亡くなった人の顔を見るということがいかに大事かということをどうしても伝えたいので、時間も限りがありますが、これだけはどうしても言わせてください。
 1997年(平成9年)に「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」という14歳の少年が大きな犯罪を起こしたのを覚えておられる方もあるかと思います。事件の翌年に『文藝春秋』(文藝春秋社)が入手した警察の供述調書を基にした記事に、こんな文章があります。
 君はなぜ人を殺そうなどと思ったのですかという調査官の質問に対して、少年は次のように答えております。
 「僕は家族のことなんか何とも思っていなかったのですが、おばあちゃんだけは大事な人だったんです。そのおばあちゃんが、僕が小学校のとき死んでしまったんです。僕からおばあちゃんを奪い取っていったのは死というものです。だから僕は、死とは何かと思うようになったのです。
 だから僕は、死とは何かをどうしても知りたくなり、最初はカエルやナメクジを殺していたのです。その後はネコを殺していたのですが、町内のネコを何匹殺しても死とは何かが分からないので、やはり人間を殺してみないと本当のことは分からないと思ったんです。」
 こんなことを14歳の少年が供述している。
 これと同じことがまだ続いていますね。佐世保の高校生の事件もあったし、名古屋の大学生がネコを殺した後に人を殺すという事件もありました。
 これが人間のために役立つことなら、知識を探究していくためなら、モルモットを何百匹何万匹殺してでも科学者はこころに痛みを感じない。この少年も、理科の実験みたいなことをしている。ナメクジを殺して、ネコを殺して、人間を殺して。知識やそういうものを得るために、人間のいのちをも犠牲にしてしまうという社会です。
 もう一つ例を挙げます。福岡市の正行寺というお寺に参りました。出光興産の会長で日本経団連の副会長もされた石田正實さんという方の長男が養子に入って住職を勤められているお寺ですが、その石田正實さんの一周忌でした。帰りに小さな冊子をいただきました。その中に14歳のお孫さんの作文があるんです。14歳といえば、さっきの酒鬼薔薇聖斗と同年代です。
 「僕は、おじいちゃんからいろんなことを教えてもらいました。特に大切なことを教えてもらったのは、おじいちゃんが亡くなる前の三日間でした。いままでテレビなどで人が死ぬと周りの人がとてもつらそうに泣いているのを見て、何でそんなに悲しいのだろうと思っていました。しかし、いざ僕のおじいちゃんが亡くなろうとしている側にいて、僕はとても寂しく悲しく、つらくて涙が止まりませんでした。そのときおじいちゃんは、僕に本当の人のいのちの尊さを教えてくださったのだと思います。
 それに、最後にどうしても忘れられないことがあります。それはおじいちゃんの顔です。それはおじいちゃんの遺体の笑顔です。とてもおおらかな笑顔でした。いつまでも僕を見守ってくださることを約束しておられるような笑顔でした。おじいちゃん、ありがとうございました。」(『ごおん』石田正實翁 追悼特別号)
 同じ14歳の二人の少年が、どうしてこんなに違うのでしょう。
 実に単純なことです。九州の石田少年の場合は、おじいちゃんが亡くなる臨終の場にいたということです。A少年は、お母さんが病院に連れていかなかった。大好きだったおばあちゃんが亡くなった病院に行けなかった。「明日は学校でしょう、留守番していてね。」と『「少年A」この子を生んで……』(文春文庫)というお母さんの手記にありました。
 現場にいた子は死を五感で認識した。ぴんと張り詰めた悲しみ、あるいはホルマリンの臭いから、ろうそくの臭いから、線香の臭いから。いろんなことが入り交じっている。しかも、視覚的に死顔を見ている。
 五感で認識したことと、頭で考えたことの違い。酒鬼薔薇聖斗は死というものを頭で、机の上で考えた。死とは何か。それを実験するためにナメクジを殺して、ネコを殺して、人間を殺す。これは科学者的思考です。酒鬼薔薇聖斗というのは非常に頭のいい子だったようです。五感で認識するか、頭で考えるか、この違いが大きいと思うのです。
 昔は、親の死に目に会えないというのは、村八分になるほど非難された。今は、私の村でも「あれ、あんちゃん、仕事、忙しいんだろうに、東京の大きい会社に行っておられる。葬式に間に合えばいいがやのに」と言われる。葬式に間に合っても、葬式のころにはもう二日間ぐらい経っているから硬直しているんです。意味がない。そういう時代になってしまっている。
 例えば、作家の中野孝次(ドイツ文学者、作家)は、死に顔なんてろくなものでないから人に見せるなという遺言でした。妻の秀さんは、自分だけ見て、直葬して、後で教会か何かで告別式をやった。小説家の吉村昭も同じく、妻で小説家の津村節子さんと娘さんしか見ておられない。このようにすぐ葬儀屋を呼んで火葬場へ運んで、という作家や有名人がいっぱい出てきた。出てきた途端に、一般の人も「あ、それでいいんだ」という雰囲気になって、直葬とか家族葬がどんどん増え、東京周辺の葬儀はもう50%ぐらいが直葬と家族葬でしょう。それは核家族化だとか、あるいは広域社会の仕事だとか、あるいは医療の高度化とか、いろんな事情があります。それらが複雑に絡んで、今は誰も死に顔を見ようとしない。
 岐阜県の郡上八幡のお寺に講演に行きまして、講演が終わって控室にいましたら、立派な紳士が入ってこられた。
 「さっきの話を聞かせていただいて大変共感致しました。実は私、東京の大学病院の医者でございまして、その病院に三十年間勤めておりました。病院に入ったころは、教授や先輩から、人間のいのちを一分でも一秒でも延ばすのが医者の使命であると教わって、私はその使命感にのっとって三十年間やってきました。
 ある日、一人のおばあちゃんを担当しました。身寄りのない方でした。もう三日前から口も利かなくなったので、もうそろそろだなと思ってモニターを見ていました。
 ところが、おばあちゃんが何か言ったような気がするので、振り向こうとしたとき、おばあちゃんが、『先生、こっち見て』と言った。はっと思って見たときには、おばあちゃんはにっこりほほ笑んで、そのまま息を引き取った。
 私は金づちで殴られたような気持ちになった。医学でもって病気を私は治してきた。しかし、人間を丸ごと診ていなかった。だから辞表を出して、今、郡上八幡で往診医をしています。「看る」という字は「手」という字に「目」と書く。目で目を看て、手で脈を看て、医者をやっております」と。
 大井玄先生(医学博士)も、そういうようなことをやっておられます。


いのちのバトンタッチ

 そこから生まれたのが『いのちのバトンタッチ』という私の詩です。人は必ず死ぬんだから、いのちのバトンタッチがあるんですよということです。死から目を背けている人は見損なうかもしれませんが、目と目を交わす一瞬のいのちのバトンタッチがあるんですよという詩です。
 この詩をタイトルにした『いのちのバトンタッチ』(東本願寺出版部)という冊子も出しました。親鸞聖人が『教行信証』の後書きに書いておられますね。道綽禅師の『安楽集』から引用した文章です。「前(さき)に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え」(「教行信証(化身土・末)」『真宗聖典』p401)。この文章は、先にお浄土へ行った者、つまり、あらゆるものが差別なく輝いて見える世界に行った者が、のこされた者を導いているんです。だから、そこをお訪ねしなさい、それが永久に続くことを願ってやみませんという文章です。
 いのちと言いますと、ほとんどの人が、ろうそくの光が消えていくようないのちを思い浮かべますが、そうではなくて、私は「無量寿」のことを言っている。だから、平仮名で書くようにしています。普通はほとんど個の「命」。特にこんにちの社会は、生まれてから死ぬまでの個の命ばかりに力が入っているのです。「命は地球よりも重い」と言ったりもしますね。
 これに対して「無量寿」をいかに伝えていくか、これが大変です。これは、「法」を伝えるのと同じことでしょう。
 私がかつての恋人に再会して納棺を続けようと思ったこと、叔父の「ありがとう」に出遇って私は納棺夫を自信を持ってやれるようになったこと、この二つの出来事というのは大きい。
 別れて他の人と結婚もしてしまっている恋人に町で会ったら、普通なら、おそらく向こうも私を避けるようにして横を向き、私も目を避けるようにして別れたと思うんですよ。その彼女がなぜ私の額の汗まで拭いてくれたか。亡くなったお父さんの額を拭いた後に私を拭いているんです。それは何かと言ったら、「二種の回向」なんです。阿弥陀さんが、彼女の目を、瞳を、そのようにさせたんですよ。亡くなったお父さんの回向なんですよ。
 そして、私を親族の恥だと言った叔父が私に「ありがとう」と言った。その「ありがとう」も、叔父の口を借りて、阿弥陀さんが「ありがとう」と言わせたんですよ。その回向のおかげで、私が椅子から転げ落ちるようにして、回心が起きたんですよ。
 要するに私のこころが変わったんです。「叔父さん、すみません、申し訳ない」という気持ちになって、それまで一度も参ったことのなかった分家の叔父の墓を翌年から参るようになったんです。
 私は60年安保の生き残りで、それで大学を中退したわけなので、マルクス、レーニン、あるいは実証哲学しか学んでなくて、宗教なんてうさんくさいものだと思っていたのが、親鸞聖人に出遇い、そして阿弥陀さんの回向に出遇った。
 『教行信証』の書き出しというのは「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり」(「教行信証(教)」『真宗聖典』p152)、あるいは「謹んで往相の回向を案ずるに」(「教行信証(行)」『真宗聖典』p157)と、全てが回向で成り立っているのです。回向というのは阿弥陀さんのはたらきです。私はそれを信じるようになって、「ああ、そうだったのか」と念仏者になったのです。
 今日は、「親鸞聖人に遇う」というテーマでございましたので、そんなお話をさせていただきました。本当は、もっと時間があったら丁寧に話せたと思うのですけど。とりとめのない話になりましたが、もう時間が来てしまいました。
 井村先生が大学ノートに、最後に震える手で書かれた『ありがとう、みなさん』の文を読み上げて終わりにします。
 「どうも、ありがとう。北陸の冬は静かです。長い冬の期間を耐えしのべば雪解けのあと、芽をふきだすチューリップの季節がやって来ます。」(『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』p142)
 「ありがとう、みなさん。人の心はいいものですね。思いやりと思いやり。それらが重なりあう波間に、私は幸福に漂(ただよ)い、眠りにつこうとしています。幸せです。ありがとう、みなさん、ほんとうに、ありがとう。」(同p26)「ありがとう」を連発しながら、井村先生は32歳で亡くなられました。
 浄土真宗は報恩感謝の思想に貫かれていると思います。報恩感謝と言ったら何か難しい気がしますけど、私は「ありがとう」でもいいんじゃないかなと思っております。今日はどうもありがとうございました。